歌舞伎や人形浄瑠璃の開演前、静寂を切り裂くように響く「東西、とーざーい」。
この一言には、単なる開始の合図以上の、歴史とこだわりが詰まっています。
東西声とは?
「東西」に込められた意味:客席への敬意と方角
なぜ「東西」なのか。そこには、伝統的な劇場の構造が深く関わっています。
- 全方位のお客さまへ: 劇場は通常、南向きに建てられています。舞台(北)から客席を見ると、右が東、左が西。つまり「東西」と呼ぶことは、客席の端から端まで、現代の言葉で言うところの「隅から隅まで」のお客さまへ呼びかけていることと同義なのです。
- 道頓堀・通り由来説: 江戸時代の大坂、道頓堀の芝居小屋はすべて東西に走る「通り」に面していました。「とざい、とーざーい」という呼びかけは、道頓堀一帯を見渡して客を呼び込む言葉だったという説もあります。
独特の型と「忌み言葉」のこだわり
東西声の発声には厳格なルールと、興行の成功を願う「げん担ぎ」があります。
- 七五三掛けの美学: 例えば『仮名手本忠臣蔵』大序の幕開きでは、下手(7回)、中央(5回)、上手(3回)と、「七五三」の回数で発声されます。下手から順に「とざい、とーざい……」と受け継がれていく様子は、儀式のような厳かさがあります。
- 語尾を下げない: どんな型であっても、最後は必ず長い「とーざい」で締めくくられます。この時、声の尻を下げることは絶対にしません。 声が下がることは「劇場の不入り(客足が落ちる)」を連想させるため、縁起が悪いとされているからです。
いつ聞ける? 東西声が響く特別な瞬間
東西声はすべての演目で聞けるわけではありません。これがかかると、観客の期待感は最高潮に達します。
- 『仮名手本忠臣蔵』大序: 歌舞伎の殿堂ともいえる演目の幕開き。
- 口上の前後: 襲名披露や舞台挨拶など、役者が素顔で並ぶ「口上」の始まり。
- 人形振り: 役者が文楽人形のように動く特殊な演出の導入。
- 超歌舞伎: 伝統と最新技術が融合した「超歌舞伎」でも、この伝統的な様式がしっかりと守られています。
権力への奉仕と芸能の歴史
芸能は古来、時の権力者の庇護を受けてきました。南を向く権力者に対し、北を向いた舞台から発せられる東西声は、礼節を尽くしながらも、その場の空気を一変させる「聖域への合図」でもあったのです。
『仮名手本忠臣蔵』大序:静寂を刻む「七五三」の東西声
歌舞伎の最高峰ともいえる『仮名手本忠臣蔵』。
その幕開けである「大序」の東西声は、通常の公演とは一線を画す、儀式のような厳粛さに満ちています。
最大の特徴は、下手から中央、上手へと受け継がれていく「七五三掛け」の構成です。
空間を震わせる三段階の呼びかけ
まだ幕が閉まった状態の舞台裏から、以下の回数で「とざい」の声が響きます。
- 下手(7回): 「とざい、とーざい。とーざい、とざい、とーざい。とーざい、とーざい」
- 中央(5回): 「とざい、とーざい。とーざい、とざい、とーざい」
- 上手(3回): 「とざい、とーざい。とーざい」
このように、下手(客席から向かって左)から順に、声の主が舞台を横切るように移動しながら回数を減らしていくことで、劇場全体に「いよいよ始まる」という緊張感が伝播していきます。
「七五三」に込められた祝祭性
古来より奇数は「陽」の数として縁起が良いとされ、特に「七・五・三」は最もおめでたい組み合わせです。この回数にのっとって声を掛けることで、作品の格調を一段と高め、興行の成功を祈る意味が込められています。
幕が開く「一瞬」への期待
下手から始まった呼び声が上手で「とーざい」と締めくくられると、間を置かずに「柝(き)」の音が響き、ゆっくりと幕が開いていきます。
この時、舞台上では役者たちが伏した状態で並んでおり、独特の「竹本(義太夫節)」に乗せて物語が動き出します。まさに、東西声の最後の一声が、観客を現実から南北朝(太平記の世界)へと誘う最後のスイッチとなるのです。
【一口メモ:聞きどころ】 大序の東西声は、ただ回数が決まっているだけでなく、一言一言の「間」や、最後の「とーざい」の語尾を絶対に下げないという伝統が厳格に守られています。耳を澄ませて、その「張り」のある響きを体感するのも、忠臣蔵を観る際の醍醐味ですね。
東西声のまとめ
次に劇場で「とざい、とーざーい!」という声が聞こえてきたら、ぜひその「語尾」や「回数」に耳を澄ませてみてください。
江戸の昔から続く、興行の成功を願う切実な思いと、お客さまへの最大限の敬意が、その一声に凝縮されています。




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