「いやさお富、久しぶりだなあ」——歌舞伎好きでなくても、どこかで聞いたことがあるかもしれないこの台詞。
これは世話物の名作「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の、もっとも有名な場面で飛び出す一言です。

通称「切られ与三(きられよさ)」または「お富与三郎(おとみよさぶろう)」。
江戸時代末期の庶民の世界を舞台に、身分を超えた恋と、すれ違い、そして再会を描いた人情劇です。
世話物の中でも、特に上演機会の多い代表的な演目の一つとして知られています。
この記事では、作品全体の概要・登場人物・各場面の紹介をまとめています。
それぞれの場面の詳しい解説は、個別記事でたっぷりお届けしています。
2026年12月2日〜25日の歌舞伎座「十二月大歌舞伎」第三部(午後6時〜)で、『見染め』から『源氏店』までが上演されます。
与三郎は市川團十郎、お富は坂東玉三郎で、2015年7月以来11年ぶりの共演です。チケットの発売は11月14日(土)午前10時からです。
10月25日までは、南座の「市川團十郎特別公演」昼の部でも『源氏店』が上演されています。
作品の基本情報
| 初演 | 1853年(嘉永6年)、江戸・中村座 |
| 作者 | 三代目瀬川如皐 |
| ジャンル | 世話物(江戸の庶民世界を描いた歌舞伎) |
| 全体構成 | 九幕十八場 |
| よく上演される場面 | 「木更津海岸見染の場」「源氏店の場」 |
もともとは九幕にわたる長い作品ですが、現在では特に人気の高い2つの場面が抜き出して上演されることがほとんどです。
登場人物
お富(おとみ)
もとは深川の芸者。木更津の親分・赤間源左衛門の妾となっていた。
たまたま海岸で出会った与三郎に一目ぼれし、密かに逢引を重ねる。
すべてが発覚して海に身を投げるが、奇跡的に助けられ、その後は鎌倉・源氏店で暮らすことに。
初演でお富を演じたのは尾上梅幸で、のちに四代目尾上菊五郎を襲名した人物です。
伊豆屋与三郎(いずやよさぶろう)
江戸の小間物問屋・伊豆屋の養子。
実子の弟に家督を譲るつもりで、あえて放蕩して勘当された、心根のやさしい若旦那。
木更津でお富に一目ぼれするが、関係が発覚して全身に34箇所もの傷を負わされる。
初演で与三郎を演じたのは八代目市川團十郎でした。
蝙蝠の安五郎(こうもりのやすごろう)
右頬に蝙蝠の入れ墨があることから「蝙蝠安(こうもりやす)」の異名を持つ小悪党。
与三郎の相棒として、傷跡をネタにゆすりを働く。
憎めないキャラクターで、舞台に笑いと緊張をもたらす。
和泉屋多左衛門(いずみやたざえもん)
鎌倉の大きな質屋・和泉屋の一番番頭。身投げしたお富を偶然救出し、妾として面倒を見ている。
実はお富と男女の仲になっていない理由が、物語の終盤に明かされる。
物語の流れ
1. 木更津海岸見染——一目ぼれの出会い
勘当されて木更津に預けられていた与三郎が、海岸を散策中に赤間源左衛門の妾・お富と出会います。
江戸から離れた片田舎で、二人は互いに一目ぼれ。これが悲劇の始まりです。
二人の出会いを描くこの場面は、その後の悲劇へと物語が動き出す発端にあたります。
👉 この場面の詳しい解説は「木更津海岸見染の場——徹底解説」へ
2. 赤間別荘——密会、そして別れ
源左衛門の旅の隙を狙って、お富は別荘に与三郎を呼び出します。
つかの間の逢瀬でしたが、子分に気づかれてしまい、帰ってきた源左衛門に発覚。
与三郎は全身を切り刻まれ、お富は海へ身を投げます。
ここは、与三郎が「切られ与三」と呼ばれる由来となる傷を負う、物語の大きな転換点です。
3. 源氏店——3年後の再会
あれから3年。
与三郎は傷だらけの身体を抱えながら蝙蝠安の相棒となり、鎌倉・源氏店にゆすりにやってきます。
そこで待っていたのは、死んだはずのお富でした——。
「いやさお富、久しぶりだなあ」。歌舞伎史に残るこの名台詞が炸裂する、最大の見せ場です。
👉 この場面の詳しい解説は「源氏店の場——徹底解説」へ
上演史
「与話情浮名横櫛」が初演されたのは、嘉永6年(1853年)3月の江戸・中村座。
三代目瀬川如皐が手がけ、与三郎を八代目市川團十郎、お富を尾上梅幸が演じました。
この梅幸は、のちに四代目尾上菊五郎を襲名した人物です。
ところが初演直後、主演の八代目市川團十郎が変死。
自殺とされており、その後は長らく、ほとんど上演されない時期が続きました。
再び脚光を浴びたのは大正期です。
十五代目市村羽左衛門の与三郎と、六代目尾上梅幸のお富による「源氏店」が大ブームに。
以降は繰り返し上演される人気演目として定着し、現代まで受け継がれています。
九幕十八場の長編を通して上演する機会は少なく、現在は「木更津海岸見染の場」と「源氏店の場」の二場を抜き出す形が一般的。
直近では、2025年12月の歌舞伎座「十二月大歌舞伎」で、坂東玉三郎と市川染五郎による上演がありました。
近年の代表的な上演の一つが、2023年4月、歌舞伎座「鳳凰祭四月大歌舞伎」で実現した片岡仁左衛門と坂東玉三郎の共演です。
仁左衛門が与三郎、玉三郎がお富を演じ、この組み合わせでの上演は2005年頃以来、約18年ぶりとなりました。
ともに人間国宝でもある両者が顔を合わせる舞台として、大きな話題を集めた公演です。
演目名の由来
『与話情浮名横櫛』のもとになったのは、長唄の四代目芳村伊三郎が若い頃、木更津で実際に体験した出来事です。
やがてその実話が講談として語られるようになり、三代目瀬川如皐が講談をもとに脚本化しました。
実話から講談を経て、歌舞伎の作品になったという成り立ちです。
主人公・与三郎にも実在のモデルがいるとされ、その人物の名は「中村大吉」。
千葉県東金市の最福寺には、モデルとなった人物の墓があります。
また、題名にある「横櫛」とは、女性の髪に挿す横長の櫛を指す言葉です。
物語の舞台として知られる「源氏店」は、「げんじだな」と読みます。
実際に江戸にあった地名は「玄冶店(げんやだな)」で、「冶(や)」を「治(じ)」に置き換えて「げんじ」とし、「源氏」の字を当てたとされています。
この作品の魅力
見どころ①:34箇所の傷
与三郎が全身に刻まれた傷を見せながら花道を歩む場面は、視覚的なインパクト抜群。
傷の数がセリフの中で具体的に語られることも、観客の想像力をかき立てます。
この34箇所の傷こそが、与三郎が「切られ与三」と呼ばれる由来です。
見どころ②:名台詞の応酬
「お釈迦様でも気が付くめえ」「しがねぇ恋の情けが仇」など、江戸の粋と啖呵が詰まったセリフは今でも色あせません。

見どころ③:意外などんでん返し
多左衛門がお富を妾にしながら男女の関係を持たない理由、そして守り袋に隠された秘密。
物語の最後に明かされる真実が、この作品に深みを与えています。
この意外性が、単なる悲恋物語にとどまらない、この作品ならではの奥行きを生んでいます。
見どころ④:一目ぼれを目で見せる「羽織落し」
「木更津海岸見染の場」で知られるのが、「羽織落し」と呼ばれる演出です。
お富に見とれた与三郎は、肩から羽織がすべり落ちても気づきません。
言葉だけに頼らず、与三郎の一目ぼれを仕草で表す場面。
二人の物語が始まる瞬間として、ぜひ注目したい演出です。
2026年12月 歌舞伎座「十二月大歌舞伎」での上演
2026年12月2日(水)〜25日(金)の歌舞伎座「十二月大歌舞伎」第三部(午後6時〜)で、『与話情浮名横櫛』が上演されます。
「見染め」から「源氏店」までを通して見られる構成です。
休演は12月9日(水)と17日(木)、チケットの発売は11月14日(土)午前10時からです。
| 役名 | 出演 |
|---|---|
| 与三郎 | 市川團十郎 |
| お富 | 坂東玉三郎 |
| 蝙蝠安 | 尾上松緑 |
| 鳶頭金五郎 | 市川右團次 |
| 和泉屋多左衛門 | 中村勘九郎 |
歌舞伎美人の公式発表によると、玉三郎と團十郎が本作で共演するのは、2015年7月の歌舞伎座公演以来、11年ぶりです。
12月の舞台の見どころと各場面の予習は、こちらの記事にまとめています。



よくある質問(FAQ)
- 2026年に『与話情浮名横櫛』を観られる公演はありますか?
-
あります。
2026年12月2日〜25日の歌舞伎座「十二月大歌舞伎」第三部で、与三郎を市川團十郎、お富を坂東玉三郎が勤めます。チケットの発売は11月14日(土)午前10時からです。
10月3日〜25日の南座「市川團十郎特別公演」昼の部でも、『源氏店』が上演されています。 - 『源氏店』の上演時間はどれくらいですか?
-
2026年10月の南座では、約55分(12時10分〜1時5分)の予定でした(10月2日時点の予定で、変更の可能性があります)。
12月の歌舞伎座は、第三部の開演が午後6時で、上演時間は公式ページに記載がありません。 - 「与話情浮名横櫛」は何と読みますか?
-
「よわなさけうきなのよこぐし」と読みます。
長い題名ですが、「切られ与三」や「お富与三郎」といった通称でも親しまれています。 - 「切られ与三」「お富与三郎」とはどう違いますか?
-
どちらも「与話情浮名横櫛」の通称で、別の作品ではありません。
「源氏店」も通称として使われます。
正式な外題が長いため、登場人物や有名な場面にちなんだ名前で呼ばれているのです。 - 歌舞伎初心者でも楽しめますか?
-
はい。
現在は九幕十八場の全編ではなく、「木更津海岸見染の場」や「源氏店の場」を抜き出して上演するのが一般的です。
出会いと再会という物語の軸を押さえておけば、初心者でも人物関係を追いやすいでしょう。 - 「木更津海岸見染の場」と「源氏店の場」は、どちらから観るのがおすすめですか?
-
物語の順序に沿うなら、二人が出会う「木更津海岸見染の場」から観るのがおすすめです。
その後に、三年後の再会を描く「源氏店の場」へ進むと、関係の変化がつかみやすくなります。
それぞれのあらすじや見どころは、個別記事「【与話情浮名横櫛】木更津海岸見染の場」と「【与話情浮名横櫛】源氏店の場」もあわせてご覧ください。 - 「与話情浮名横櫛」が初演されたのはいつ、どこですか?
-
嘉永6年(1853年)3月、江戸の中村座で初演されました。
作者は三代目瀬川如皐。
初演時は八代目市川團十郎が与三郎を、尾上梅幸がお富を演じています。 - 与三郎はなぜ「切られ与三」と呼ばれるのですか?
-
与三郎が全身34箇所に及ぶ傷を負わされたことに由来します。
その傷跡が、「切られ与三」という呼び名のもとになりました。 - 「木更津海岸見染の場」と「源氏店の場」は、まとめて上演されることが多いですか?
-
現在は、「木更津海岸見染の場」と「源氏店の場」の二場を抜き出して上演する形が一般的です。
- 名台詞「しがねえ恋の情けが仇」はどんな場面で使われますか?
-
「しがねぇ恋の情けが仇」は、源氏店の場で与三郎がお富と再会する場面の名台詞です。
「お釈迦様でも気が付くめえ」とともに、江戸の粋と啖呵が詰まったセリフとして知られています。
詳しい場面の流れは、個別記事「源氏店の場」もあわせてご覧ください。 - なぜ大正期にこの演目は人気になったのですか?
-
大正期には、十五代目市村羽左衛門の与三郎と六代目尾上梅幸のお富による上演が大ブームとなりました。
この二人の上演によって、作品が大きな人気を集めたことが分かっています。 - 「与話情浮名横櫛」は他の世話物とどう違いますか?
-
世話物は、江戸の庶民の世界を描く歌舞伎のジャンルです(詳しくは別記事「世話物とは」で解説しています)。
「与話情浮名横櫛」ならではの特徴は、長唄家元・四代目芳村伊三郎の実体験がもとになっていること。
初演後は一時上演が途絶えたものの、大正期に大衆的な人気演目として復活し、現代まで愛され続けています。
こうした成立の経緯と上演史を持つ点が、本作の大きな特色といえるでしょう。
歌舞伎が初めての方へ
歌舞伎自体が初めてだと「どう観ればいいの?」と迷うこともあるかもしれません。
歌舞伎には独特の約束ごとや表現がありますが、基本を少し知っておくだけで、面白さがぐっと伝わりやすくなります。
歌舞伎とは?初心者向けにわかりやすく解説

まとめ
「与話情浮名横櫛」は、江戸の人情・粋・色気が凝縮された世話物の傑作です。
特に「源氏店の場」は歌舞伎入門にも最適な場面で、初めて歌舞伎を観る方にもおすすめです。
「与話情浮名横櫛」は実話をもとに生まれた演目で、その背景は作品の大きな特徴となっています。
初演後はいったん上演が途絶えたものの、大正期に復活して人気演目となり、現代の舞台へと受け継がれてきました。
その歩みのなかで輝くのが、片岡仁左衛門・坂東玉三郎という名コンビ。
時代を越えて愛されてきた作品の魅力を象徴する存在といえるでしょう。
各場面の詳しい解説記事もあわせてどうぞ。
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