歌舞伎の人気舞踊「二人道成寺」は、華やかな舞の裏に、激しい恋の執念が隠された作品です。
「どんな話なの?」「娘道成寺と何が違うの?」と気になっている方も多いのではないでしょうか。
この記事では、二人道成寺のあらすじを初心者向けにわかりやすく解説しつつ、元になった「娘道成寺」との違いや見どころも紹介します。
道成寺の鐘供養の日、白拍子・花子が現れ華やかな舞を披露する。
しかしその正体は、僧・安珍に裏切られた清姫の怨霊。
やがて蛇体となって鐘に飛び込み、激しい情念を爆発させる。
※二人道成寺では花子を二人の役者が演じる。
二人道成寺のあらすじ
道成寺では、新しく作られた鐘の供養が行われようとしていました。
そこへ白拍子・花子が現れ、華やかな舞を披露します。しかし、実はこの花子の正体は、僧・安珍に裏切られた女「清姫」の怨霊。
恋の恨みを抱えた清姫は、やがて蛇の姿となり、鐘に執着します。最後は鐘へと飛び込み、激しい情念を爆発させる――という物語です。
二人道成寺では、この花子を二人の役者が演じることで、華やかさと緊張感がより強調されています。
京鹿子娘二人道成寺(きょうがのこ むすめににんどうじょうじ)とは
二人道成寺は、「娘道成寺」をベースにした演出違いの舞踊作品です。
基本のストーリーは同じですが、最大の特徴は花子を二人で演じる点にあります。
一人で演じる通常の道成寺に対し、二人道成寺では息の合った舞や対比的な表現が加わり、よりエンタメ性の高い舞台になっています。
京鹿子娘道成寺(きょうがのこ むすめどうじょうじ)は、
歌舞伎舞踊の中でもとりわけ格調が高く、
女形芸・長唄舞踊の粋を極めた代表的な大曲です。
略して『娘道成寺』とも呼ばれています。
本作は、能『道成寺』および安珍・清姫伝説を題材とする
いわゆる「道成寺もの」の流れをくむ作品です。
タイトルの「京鹿子」とは、使用される衣装に京都の鹿の子絞り染めの生地が使われていることに由来しているそうです。
京鹿子娘道成寺との違い
「娘道成寺」との違いはシンプルですが、見どころに大きく関わります。
主な違い
- 娘道成寺:花子を一人で演じる
- 二人道成寺:花子を二人で演じる
これにより👇
- シンクロする美しさ
- あえてズラす演出
- 掛け合いのような舞
など、一人では出せない魅力が生まれます。
「道成寺もの」と『娘道成寺』成立の背景
古くから、道成寺伝説を題材にした演目や舞踊は数多く作られ、
それらは総称して「道成寺もの」と呼ばれてきました。
これらの作品は、
各役者の家の芸(お家芸)として独自の所作や振付を盛り込みながら伝えられており、
曲や構成も必ずしも統一されていませんでした。
そうした数ある「道成寺もの」の中から、
初代中村富十郎が構成の土台としたのが、
初代瀬川菊之丞が踊った『百千鳥娘道成寺(ももちどりむすめどうじょうじ)』です。
初代富十郎はこれをもとに、
自らの当り芸であった女形舞踊の技巧と表現力を集約し、
今日知られる完成形としての『娘道成寺』を作り上げました。
現在に伝わる「娘道成寺」
数多く存在した「道成寺もの」の中で、
曲と振付の両方が揃って現在まで伝承されているのは、初代富十郎による『娘道成寺』のみとなっています。
そのため、今日、歌舞伎や日本舞踊の世界で
『娘道成寺』といえば、通常は初代富十郎が演じた型を指すという理解が一般的です。
派生作品について
『娘道成寺』を基本形として、
構成や曲を踏まえつつ発展させた派生作品も生まれました。
代表的なものには、
二人の白拍子が舞を競い合う『二人道成寺(ににんどうじょうじ)』、
立役が主役となる異色作『奴道成寺(やっこどうじょうじ)』、
男女二人で踊る『男女道成寺(めおとどうじょうじ)』などがあります。
いずれも、
曲や基本構成は『娘道成寺』を踏襲しており、
本作がいかに「道成寺もの」の中心的存在であるかを示しています。
京鹿子娘二人道成寺のあらすじ
聞いたか坊主
舞台は、桜花爛漫の紀州(現在の和歌山県)道成寺。
所化(しょけ=修行中の若い僧)たちが
「聞いたか聞いたか」「聞いたぞ聞いたぞ」
と声を掛け合いながら登場する。
今日は、かつて焼け落ちた道成寺の鐘楼に新しい鐘が再興され、その供養が行われる日である。
しかし所化たちにとって気が重いのは、師僧による長々とした読経を聞かなければならないこと。そこで彼らは、何か気晴らしになる打開策はないものかと相談し合っている。
ある坊主は言う。
「鐘供養とあらば、わたしゃこの般若湯を持ってきた。」
また別の坊主は、
「なれば拙僧は天蓋を持ってきたぞ。」
と応じる。
実はこの般若湯(はんにゃとう)も天蓋(てんがい)も隠語で、
般若湯は酒、天蓋はタコのことを指している。
つまりこの所化たちは、
「どうせ供養の間は暇なのだから、酒でも飲み、つまみでも食べて過ごそう」
と相談しているわけで、清浄な寺の行事とは裏腹に、なんとも堕落しきった姿が滑稽に描かれているのである。
この軽妙で世俗的なやり取りが、
後に現れる二人の白拍子花子の妖艶さとの鮮やかな対比となり、
『京鹿子娘二人道成寺』序盤の重要な導入部となっています。
道行

花道より、白拍子(歌舞を生業とする遊女)花子が登場する。
烏帽子をつけ、島田髷に振袖という、清楚な娘姿である。
舞台は道成寺からほど近い小松原。
振袖姿の娘・花子は、どこか心を急がせるように道を行く。ふと、自分の袂や裾が乱れていることに気づき、はっとして恥じらう様子を見せるが、その仕草からは、先ほどまで恋人と逢瀬を重ねていたことがほのめかされる。
やがて花子は、恋人との別れの情景を思い返し、朝の訪れを告げる鐘の音を思い出す。その音が二人の時を引き裂いたことに、憎しみの感情をのぞかせ、鐘そのものへの怨みをほのめかしながら、道成寺へと向かっていく。
花子が花道での所作を終えると舞台へ進み、固く閉ざされた木戸のそばに立つ。
ここから先、彼女の内に秘められた正体が、徐々に表に現れていきます。
問答

ここでも所化たちは、
「白拍子だ」「いや、生娘だ」
と下世話な言葉を交わしながら騒ぎ立て、美しい花子の訪れに浮き足立ちます。
花子は自らを白拍子であると名乗り、鐘を拝ませてほしいと所化たちに願い出ます。
鐘供養は本来女人禁制ですが、所化たちはその美しさに心を奪われ、舞を舞うことを条件に、道成寺の中へ入ることを許してしまいます。
花子が木戸をくぐり、所化から烏帽子を受け取ると、いったん下手へ引っ込み、赤地の振袖へと衣裳を改めます。
その間に木戸は片付けられ、所化たちは舞台の両側に座ります。
こうして舞台は整い、花子による本格的な白拍子の舞へと移っていきます。
白拍子の舞

花子は赤の振袖に衣裳を改め、烏帽子をつけ、中啓を手に舞い始める。
この場は能の趣を色濃く取り入れた、厳かで静謐な場面です。
夕暮れに響く鐘の音をきっかけに、「初夜の鐘は諸行無常と響く」など、
時を告げる鐘の音を人生の無常になぞらえた歌詞に乗せて舞が進んで行きます。
歌詞は仏教語である「諸行無常、寂滅為楽」
を用い、世のはかなさ、空しさを説くものですが、続けて「聞いて驚く人もなし」
と謳われ、無常を聞き慣れた現世の人々を皮肉るような、どこか世俗的で諧謔味のある含みも持たせています。
表面上は清らかな白拍子の舞でありながら、その内側には次第に俗念や皮肉がにじみ出はじめ、
花子の舞は静けさの中に、わずかな不穏さを孕みつつ進んでいきます。
町娘の踊り
花子は烏帽子を脱ぎ、先ほどまでの能仕立ての厳かな舞から離れ、ぱっと華やいだ歌舞伎らしい踊りへと移ります。
恋に心乱す女と、つれない男の心を歌った歌詞にのせ、手踊り(小道具を使わない踊り)で軽やかに舞います。
舞の途中、「引き抜き」の手法によって、赤の衣裳が一瞬にして水浅葱(薄水色)の衣裳へと変わり、舞台の雰囲気も大きく変化します。
この鮮やかな早変わりは、花子の心の移ろいを象徴する見せ場のひとつです。
ここからは、衣裳や小道具、曲調を次々に変えながら、さまざまな恋の姿が描かれていきます。
可憐さや戯れ、浮かれた心など、町娘としての花子の多彩な表情が踊り分けられ、舞台はいよいよ華やかさを増していきます。
鞠をつく娘
「テントツツン、テントツツン……」と、三味線、鼓がリズミカルなフレーズを繰り返す中、花子は舞台に散る桜の花びらをかき集め、鞠を作ります。
そして少女のように無邪気な様子で、軽やかに鞠つきをして見せます。
やがて舞は、吉原、島原、伏見、墨染――
と、当時の江戸や上方に名高い廓の名を次々に織り込んだ「廓づくし」の歌詞へと移り、明るくテンポよく展開していきます。
廓は遊興の場であると同時に、恋の花が咲く場所でもあります。
この場面では、花子の踊りを通して、恋の楽しさや浮き立つ心が、華やかで親しみやすい表情として描き出されます。
花娘
花子はいったん舞台から引っ込み、再び姿を現すと、上半身は鴇色(ときいろ/淡いピンク)の衣裳に改められています。
赤い笠をかぶった愛らしい娘の姿となり、舞台の雰囲気は一層やわらぎます。
この場面では、「振り出し笠」と呼ばれる仕掛けの笠を用いて踊ります。一つの笠を振り出すと、三つの笠が連なって現れる趣向で、可憐で遊び心に満ちた踊りが展開されます。
伴奏には、
「梅と桜はどちらが兄か弟かわからない」
という文句で知られる、当時流行した「わきて節」が用いられ、のどかで春らしい情緒が漂います。
花娘の踊りは、無邪気で明るい娘の姿を強調しつつ、物語の中に一瞬の安らぎと華やぎをもたらす場面となっています。
所化の花傘踊り
花子がひとしきり踊って舞台を引っ込むと、今度は所化たちが花傘を手にして現れます。
所化たちは肌脱ぎとなり、赤の襦袢に卵色の股引をあらわにして、花傘を持ったまま陽気に踊り出します。
「菖蒲と杜若はどっちが姉か妹かわからない」という、どこかとぼけた歌詞にのせて展開される群舞は、堅苦しい寺の行事とは正反対の、のびのびとした楽しさに満ちています。
さらに二人の所化が前に出て、
「あっちみろ、こっちみろ。やーい」
「なんだこいつ!」
と、軽い悪ふざけを交わし、場内の空気をいっそう和ませます。
この場面では、浮かれ騒ぐ所化たちの姿が滑稽に描かれ、後に訪れる緊張感との鮮やかな対比を生み出しています。
手拭いの踊り(くどき)
二人の花子は藤色の衣裳をまとい、手拭いを手にして、しとやかに踊ります。
この場面は、女の恋心を切々と語りかける「くどき」と呼ばれる、本作の眼目のひとつです。
踊りの中では、恋する思いを言葉にして訴えかけるように、じれったさを募らせたり、ふとした言葉に喜んだりします。
また、悩み、嫉妬し、涙を流す姿も描かれ、恋に生きる娘の心の揺れが細やかに表現されます。
手拭いを使った繊細な所作によって、恋する女に共通する切なさや哀しみが情緒豊かに浮かび上がり、舞台にはしみじみとした余韻が漂います。
手拭いの踊りのあとは役者さんが舞台から客席に向かって手拭いを投げる二人道成寺では恒例の「手拭い撒き」というお楽しみがあります。
山づくし(鞨鼓の踊り)
この場面では、二十二の山の名を唄い込んだ「山づくし」の詞章にのせて舞が展開します。
花子は上半身を卵色の衣裳に替え、胸に鞨鼓(かっこ/雅楽に用いられる打楽器)をつけ、両手に撥を持って打ち鳴らしながら踊ります。
富士山、吉野山、嵐山、中山、石山など、名高い山々の名が次々と読み込まれ、恋歌の趣を帯びた歌詞に合わせて、花子は軽快な踊りを見せます。
二人の鞨鼓を打つ音と足拍子が一体となり、耳にも心地よいリズムが生まれます。
稲荷山のくだりでは、狐を思わせる所作が織り込まれるなど、遊び心のある振りも見どころです。
雅楽由来の楽器を用いながら、歌舞伎舞踊ならではの躍動感が際立つ場面となっています。
紫の衣裳の手踊り
花子は紫の衣裳に着替え、小道具を使わない手踊りで、可愛らしい振りを次々と見せます。
この場面では、神様に一心に祈る仕草をしたり、深い仲を噂されて恥ずかしがる様子を表したりと、娘らしい感情が細やかに描かれます。
また、音楽のリズムに合わせて手を上下にひらひらと動かし、身体を揺らすなど、愛らしい動きが随所に盛り込まれているのも特徴です。
全体に軽やかで親しみやすい踊りが続き、二人の花子の無邪気な魅力が強調されます。
なお、この場面で用いられる衣裳の柄は、出演者の好みによって工夫されることが多く、役者ごとの個性がさりげなく表れる見どころのひとつとなっています。
白の衣裳と鈴太鼓の踊り
花子は歩みを進めながら、すっとした動きで「引抜き」を行い、衣裳は白へと変わります。
ここからは、鈴太鼓(すずだいこ)を手にした、テンポの速い踊りが始まります。鈴太鼓は振り鼓とも呼ばれ、両手に持った二つの太鼓を打ち鳴らしながら舞うのが特徴です。
太鼓を打ち付ける音、中に仕込まれた鈴のジャラジャラという響き、さらに足拍子が重なり合い、にぎやかで耳にも楽しい場面となります。
曲は田植え歌で、踊りは次第に熱を帯び、花子は夢中になって鈴太鼓を床に打ちつけ、「ドコドコ」と力強い音を響かせます。
しかしその熱気の中で、次第に花子の顔色が変わり、舞台の空気にも不穏な気配が漂い始めます。
この場面は、無邪気な踊りから情念の世界へと転じていく、重要な転換点となっています。
鐘入

二人の花子は鐘をきっと見上げ、その存在に強く引き寄せられるような様子を見せます。
異変を察した所化たちが必死に制止しますが、花子はそれを振り払い、鐘に取り憑こうとします。
やがて鐘が落とされ、花子はその中へと飛び込みます。
所化たちは驚き、恐れながら必死に祈りを捧げますが、もはや事態を止めることはできません。
その後、花道からは鱗四天(うろこよてん)と呼ばれる捕り手たちが現れ、「とうづくし」のせりふが語られます。
こうして、花子の正体が清姫の怨念であったことが明確となり、華やかに始まった舞は、凄絶な結末へと至るのです。
蛇体
鐘が引き上げられると、徐々に花子の上に被せられていた赤の衣裳が取り去られます。
その下から現れるのは、清姫の本性を示す「鱗模様」の衣裳です。
ここに至って、白拍子花子の正体が、鐘に取り憑いた大蛇――清姫の怨念であったことが、視覚的にも明確に示されます。
可憐な娘の姿から一転し、妖しく凄絶な存在へと変貌する、この場面は『京鹿子娘二人道成寺』の最終的な見せ場となっています。
押戻
蛇体となった二人の花子は花道へと現れます。
ここで、大館左馬五郎が登場し、暴れ出す花子を力強く押し鎮める「押戻」が演じられます。
この場面では、それまでの優美な舞踊とは一転し、荒事の要素を前面に出した力強い芸が中心となります。
激しい立ち回りと様式化された動きによって、蛇体の怨念が封じられていく様子が描かれます。
最後には、捕り手たちが集まり、全体で蛇の形を表します。
蛇体の花子は鐘の上、あるいは台の上に位置し、大館左馬五郎は下手側で元禄見得を決めます。
こうして、それぞれが決まりの姿を取り、壮麗な幕切れとなります。

見どころ
二人道成寺の魅力は、ストーリー以上に“舞台表現”にあります。
① 息の合った舞
二人でピタッと揃う動きは圧巻。ここが最大の見せ場です。
② 豪華な衣装と早替り
道成寺といえば衣装の美しさ。
次々と変わる姿も見逃せません。
③ 清姫の情念表現
ただ美しいだけでなく、内側にある“執念”がじわっと出てくるのがポイント。
二人道成寺 あらすじのまとめ
「今回は二人道成寺のあらすじと見どころを解説しました。」
『京鹿子娘二人道成寺(娘道成寺)』は、数ある道成寺伝説の舞踊作品の中から、初代中村富十郎によって完成度高く結晶化された
唯一無二の正統形です。
華麗な舞踊の裏に潜む女の情念と怨念、そして女形芸の極限表現を味わう――
それこそが『二人道成寺』最大の魅力と言えるでしょう。
見どころとおすすめの席はこちらです


名演として語り継がれる舞台を、自宅でじっくり楽しめるDVDです。
歌舞伎をより深く味わいたい方は、ぜひチェックしてみてください。
能の《道成寺》
能の《道成寺》と安珍清姫伝説
能《道成寺》は、もともと安珍清姫伝説の後日譚を描いた作品です。
伝説そのものではなく、悲劇が起きた「その後」の世界――すでに終わったはずの出来事が、なお消えずに残る怨念を主題としています。
この能の世界観が、のちに歌舞伎では舞踊劇《京鹿子娘道成寺》として、より華やかに展開されていきました。
では、その原点となる安珍清姫伝説とは、どのような物語だったのでしょうか。
安珍清姫伝説
僧の安珍は熊野詣の途中、道中の宿として清姫の家に立ち寄ります。若く美しい清姫は、旅の僧である安珍に淡い恋心を抱き、安珍もその思いを強く拒むことなく、いずれ再び訪れるといった曖昧な約束を残して立ち去ります。
しかし安珍にその約束を守る気はなく、熊野参詣を終えると清姫を避けるように道を急ぎます。
裏切られたことを知った清姫の恋慕は、やがて激しい怒りと悲しみに変わり、安珍を追って日高川へと向かいます。
その執念は人の身を超え、川を渡るうちに清姫は蛇の姿へと変じていきます。
必死に逃げる安珍は、ついに道成寺へとたどり着き、僧たちに助けを求めて鐘の中へ身を隠します。
しかし清姫の執念はなおも鎮まらず、蛇体となった清姫は鐘に巻きつき、激しい炎を吐いて鐘を焼き尽くします。
その中で安珍は命を落とし、恋と裏切りが生んだこの悲劇は、安珍清姫伝説として後世に語り継がれることになりました。
能《道成寺》のあらすじ
能《道成寺》では、この悲劇はすでに過去の出来事として語られます。
道成寺では、かつて一人の僧が若い女の恋慕から逃れ、鐘に隠れた末に焼き殺されるという惨劇がありました。その怨念を恐れ、寺では長らく鐘をつくことを禁じてきたのです。
やがて新しい鐘が鋳造され、落慶供養の日を迎えます。そこへ一人の白拍子の女が現れ、舞を舞いたいと願い出ます。僧たちは過去の因縁を警戒しつつも、女の優雅な舞に心を許し、ついには鐘の供養を許してしまいます。
しかし舞の最中、女は次第に正体を現し、鐘に飛び入った瞬間、蛇体の鬼女へと変貌します。鐘は激しく揺れ、僧たちは祈りによって、その怨念を鎮めようとします。
能《道成寺》における鐘入り(かねいり)
能《道成寺》における鐘入り(かねいり)は、この曲最大の見どころであり、能楽の中でも屈指の難所として知られています。
演者は、舞台上方から落ちてくる実物大の鐘の中へ飛び込むという、極めて高度で危険な演出を行います。鐘は単なる小道具ではなく、竹や木で組まれ、迫力を出すためにおもりも仕込まれた構造で、金属の鐘に見えるよう作られています。その重量は数十キロにも及び、上から一気に落下してくるため、わずかな位置やタイミングのズレが大怪我につながりかねません。
鐘が床に据えられるのではなく、「上から落ちてくる」一瞬を見極め、正確な位置に身を置く必要がある点に、鐘入りの最大の難しさがあります。
演者は面を着け、装束をまとい、視界や動きが制限された状態で、囃子や舞の流れを身体で感じ取りながら、完璧な集中力をもって飛び込まねばなりません。まさに、極限の技量と精神力を同時に要求される所作です。
この鐘入りが許されるのは、家元や流派から力量と経験を認められた能楽師のみ。
失敗が許されないこの一瞬は、舞台上のクライマックスであると同時に、能楽師の覚悟そのものが試される場面でもあります。
だからこそ《道成寺》の鐘入りは、単なる見せ場を超え、
能という芸の厳しさと深さを象徴する瞬間として、特別な敬意をもって語られているのです。
私も実際にはまだ見たことがないのでぜひ一度見てみたいものです。
まとめ
安珍清姫伝説が恋と裏切りが生んだ悲劇そのものを描く物語であるのに対し、
能《道成寺》は、その悲劇の後になお残る執念と因縁を描いた作品です。
出来事は終わっても、感情は終わらない。
その消え残る思いが、白拍子の舞となって再び現れる――
そこにこそ、能《道成寺》の静かで恐ろしい魅力があります。


- 二人道成寺と京鹿子娘道成寺の違いは何ですか?
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最大の違いは、花子を演じる人数です。娘道成寺は一人の役者が花子を演じるのに対し、二人道成寺は二人の役者が花子を演じます。二人で演じることで、シンクロする美しさや掛け合いのような舞など、一人では出せない華やかさと緊張感が生まれます。
- 二人道成寺の上演時間はどのくらいですか?
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上演形態によりますが『押戻し』の演出がなければ1時間10分前後です。
- 二人道成寺はどこで観られますか?
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全国でも上演されるのは年に一度あるかどうかという貴重な演目です。
サブスクなどで気軽に観ることはできませんが、DVDであればすぐに楽しむことができます。 - 手拭い撒きとは何ですか?
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手拭い撒きとは、くどき(手拭いの踊り)のあとに役者が舞台から客席に向けて手拭いを投げるお楽しみです。二人道成寺では恒例の演出で、観客にとって思い出の品になることも多い人気の見せ場のひとつです。


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