本朝廿四孝『十種香・奥庭』を一言でいうと
死んだはずの許嫁を想い続ける姫が、氷の湖を渡る奇跡を起こす物語です。
敵対する武田家と長尾家に引き裂かれた恋人たちと、
その危機を救うため一途な恋心が奇跡を呼び起こす八重垣姫の姿が描かれます。
本朝廿四孝とは
「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」は、明和3年(1766年)1月14日に大坂・竹本座で初演された人形浄瑠璃を歌舞伎化した全五段の時代物です。
近松半二・三好松洛らの合作で、甲斐の武田信玄と越後の長尾謙信(上杉謙信)の対立を題材にしています。
武田信玄と上杉謙信といえば、川中島でたびたび合戦を繰り広げたことで知られる戦国時代随一のライバル同士。
本作はその史実を下敷きにしながら、両家の間で引き裂かれる若い男女の悲恋を、大胆な脚色で描き出した作品です。
敵同士の家に生まれた恋人たちという構図は、後の世にも通じる普遍的なドラマとして、多くの観客の共感を集めてきました。
全五段のうち、現在単独でよく上演されるのは四段目にあたる「十種香」と、それに続く「奥庭(狐火の場)」です。
この記事でも、この二つの場面を中心にあらすじと見どころを解説していきます。
なお2026年10月には、新国立劇場(国立劇場休館中の代替会場)で「十種香・奥庭」とは異なる三段目「筍掘り」が27年ぶりに上演されます。
横暴な兄と孝行な弟のどちらが名軍師・山本勘助の名を継ぐのかを描く場面で、八重垣姫が活躍する「十種香・奥庭」とはまた違った本作の一面を楽しめます。

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本朝廿四孝『十種香・奥庭』のあらすじ
甲斐の武田信玄と越後の長尾謙信は、国境を隔てて敵対する間柄でした。
室町幕府の将軍・足利義晴は両家を和睦させるため、武田の子息・勝頼と長尾の娘・八重垣姫を許婚として結ばせます。
ところがその義晴が何者かに暗殺されるという事件が起こり、武田・長尾の両家は「三回忌までに真犯人を見つけられなければ、それぞれの子の首を差し出す」という約束を交わしてしまいます。
期限までに犯人は見つからず、勝頼は約束どおり切腹して果てます。
敵味方に分かれてしまった二人の恋は、これで永遠に終わったかに見えました。
しかしこの切腹した勝頼は、実は武田家の家臣の子が身代わりとなったもの。
本物の勝頼は、誰にも気づかれることなくひそかに生き延びていました。
十種香の場
八重垣姫は、切腹して死んだと信じている勝頼の面影を描かせ、十種の名香を焚いてその冥福を祈り続けています。
そばでは腰元・濡衣が、亡き夫の位牌に向かって念仏を唱えています。
そこへ、濡衣のもとに仕える花売りの青年・蓑作が現れます。
八重垣姫は、蓑作の姿が亡き勝頼にあまりにもよく似ていることに気づき、思わず縋りついてしまいますが、蓑作本人は「自分はただの花売りだ」と否定します。
八重垣姫はそれでも諦めきれず、勝頼の絵姿を蓑作に重ね合わせては、一人で語りかけるように胸の内を明かしていきます。
やがて濡衣の仲介によって、蓑作こそ生きていた本物の勝頼であることが明かされ、八重垣姫は再会を果たして抱き合います。
ところが、この会話を父・長尾謙信が物陰で立ち聞きしていました。
謙信は勝頼(蓑作)の命を狙い、何も知らぬふりをして塩尻への使者に立てます。
これは、道中で勝頼を暗殺するための罠でした。
奥庭(狐火の場)
父の企みを察した八重垣姫は、急いで勝頼に危険を知らせようとしますが、行く手には凍りついた諏訪湖が立ちはだかります。
そこで姫は、武田家の家宝である「諏訪法性の兜」を手に取り、身につけます。
すると諏訪明神に仕える白狐の加護によって、八重垣姫は狐に取り憑かれたような姿となり、奇跡の力で凍った湖の上を一気に渡っていくのでした。
諏訪法性の兜は、武田家に伝わる軍学書「甲陽軍鑑」にも記された伝説の兜で、武田信玄からその子・勝頼へ譲られたと伝えられています。
史実に基づくこの伝承を踏まえると、劇中で兜が武田家の象徴として扱われている理由がより深く理解できます。
本朝廿四孝の見どころ
八重垣姫の一途な恋
敵の家の娘でありながら、死んだと信じた許婚を想い続け、真実を知った瞬間に迷わず危険な湖へと飛び出す。
この一途さこそが、八重垣姫が「三姫」の一人に数えられる最大の理由です。
同じ三姫でも、『鎌倉三代記』の時姫は、恋人のために父を討つよう迫られる情念の女性として描かれ、『祇園祭礼信仰記』の雪姫は、芸によって運命を切り開く気品ある存在として描かれます。
行動力とロマンで危機を乗り越える八重垣姫、情念に突き動かされる時姫、芸術性で奇跡を起こす雪姫——同じ「赤姫」というくくりの中にも、これほど違う魅力があることが、三姫を見比べる楽しさでもあります。
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人形振りによる幻想的な演出
奥庭の場で八重垣姫が凍った湖を渡る場面は、人形浄瑠璃の人形の動きを模した「人形振り」という演出で演じられることで知られています。
竹本の語りに乗せて、後見役の黒衣に操られる人形のように舞う八重垣姫の姿は、現実離れした幻想美を舞台にもたらします。
濡衣が背負うもうひとつの悲しみ
八重垣姫と勝頼の再会を陰で支える腰元・濡衣も、実は自身の夫を亡くしたばかりという悲しみを抱えています。
華やかな主役の恋の陰で、静かに亡き夫を弔い続ける濡衣の存在が、この場面に深みを与えています。
竹本の語りと様式美
本朝廿四孝はもともと人形浄瑠璃の作品であるため、歌舞伎になっても竹本(義太夫)の語りに乗せて演じられる場面が多いのが特徴です。
セリフにならない八重垣姫の心情は、太夫の語りと三味線の音色が代わりに表現しており、これを聴き比べる楽しみも十種香・奥庭の見どころのひとつです。
丸本物と呼ばれるこうした演目では、役者の演技だけでなく、竹本と息を合わせる呼吸そのものが芸の見せどころになります。
本朝廿四孝の登場人物
八重垣姫(やえがきひめ)|長尾家の娘
長尾謙信の娘で、敵方である武田勝頼の許婚。
死んだと信じた勝頼を想い続け、真実を知ると自ら危険な湖を渡って恋人を救う、一途で行動力のあるヒロインです。
赤地の衣装をまとう「赤姫」の中でも、時姫・雪姫と並ぶ「三姫」の一人として、女形の大役に数えられています。
武田勝頼(実は蓑作)
武田信玄の子息。
身代わりの死によって表向きは切腹したことになっており、花売りの蓑作と名を変えて長尾家のそばに身を潜めていました。
腰元濡衣(ぬれぎぬ)
八重垣姫に仕える腰元。
蓑作が本物の勝頼であることを知る立場にあり、二人の再会を仲介する重要な役どころです。
長尾謙信(ながおけんしん)
八重垣姫の父で、長尾家の当主。
娘と勝頼の再会を立ち聞きし、勝頼暗殺を企む冷徹な一面を見せます。
史実の上杉謙信をモデルにした人物で、劇中では娘の恋よりも家同士の因縁を優先する厳格な武将として描かれています。
タイトルの由来|「勘助住家」と二十四孝
「本朝廿四孝」というタイトルは、現在はあまり上演されない三段目「勘助住家」に由来します。
この段には、武田家の軍師として名高い山本勘助にまつわる兄弟の物語が描かれています。
山本勘助には横蔵・慈悲蔵という二人の息子(設定上の人物)がおり、兄の横蔵は一見粗野に見えて実は深い知略を持つ人物、弟の慈悲蔵は年老いた母に孝行を尽くす人物として描かれます。
慈悲蔵が老母のために雪の中で筍を掘り当てようとする場面は、中国に伝わる親孝行の逸話集「二十四孝」のうち、雪の中で筍を探し当てたという孟宗の故事になぞらえたものです。
作品全体のタイトルは、この親孝行のエピソードにちなんで名づけられたとされています。
物語の本筋である八重垣姫の恋物語とは別に、こうした親子の情も織り込まれているのが本朝廿四孝の奥深さです。
普段は「十種香・奥庭」の恋物語ばかりが注目されますが、作品名の由来を知ると、本朝廿四孝という演目の奥行きがより感じられるはずです。
史実とフィクションの違い
劇中で武田・長尾両家の和睦の証人となる将軍・足利義晴は、実在した室町幕府12代将軍です。
史実の義晴は天文19年(1550年)に近江で病没しており、劇中で描かれるような暗殺事件は実際には起きていません。
このように本朝廿四孝は、実在の人物や史実を下敷きにしながらも、大胆な脚色によって恋物語を成立させる、いわゆる時代物特有の手法で作られています。
史実そのままではないからこそ、八重垣姫の一途な恋や奇跡の場面が、より劇的に描けるとも言えるでしょう。
初心者向け|鑑賞のポイント
十種香・奥庭をより楽しむために、押さえておきたいポイントをまとめました。
- 八重垣姫の衣装や表情の変化:十種香で見せる可憐さと、奥庭で見せる鬼気迫る表情の落差に注目
- 諏訪法性の兜を手にする瞬間:ここから雰囲気が一変する、劇的な転換点です
- 竹本の語り:セリフのない場面ほど、太夫の語りに感情が込められています
とくに奥庭の場は、八重垣姫が兜を身につけてから物語が一気に加速していきます。
そこに至るまでの十種香での静かな悲しみとの対比を意識して観ると、この演目の魅力がより深く味わえるはずです。
FAQ|本朝廿四孝に関するよくある質問
- 本朝廿四孝とはどんな演目ですか?
-
武田信玄と長尾謙信(上杉謙信)の対立を題材にした全五段の時代物で、明和3年(1766年)に人形浄瑠璃として初演され、後に歌舞伎化されました。
現在は四段目「十種香・奥庭」が単独でよく上演されます。 - 十種香・奥庭とはどんな場面ですか?
-
死んだと思われていた許婚・勝頼が生きていたことを知った八重垣姫が、迫る危険を知らせるため、凍った諏訪湖を狐の加護を借りて渡る名場面です。
- 八重垣姫はなぜ「三姫」の一人とされるのですか?
-
恋人の危機を救うため、姫という立場を超えて自ら大胆な行動に出る点や、高度な演技力が求められる点が評価され、時姫・雪姫と並ぶ「三姫」の一人とされています。
- 蓑作の正体は何ですか?
-
蓑作は、切腹して死んだとされていた武田勝頼が名を変えた姿です。
身代わりの死によって表向きは亡くなったことにして、身を隠していました。 - 本朝廿四孝は歌舞伎初心者にもおすすめですか?
-
おすすめです。
恋人の危機を救う一途な姫の物語というシンプルな筋立てに加え、狐火の幻想的な演出も見応えがあり、初めて時代物を観る人にも楽しみやすい演目です。
あらすじを事前に押さえておけば、竹本の語りやセリフが多少聞き取りにくくても、物語の流れを見失う心配はありません。 - 「廿四孝」の「廿」は当て字ですか?
-
当て字ではありません。
「廿(にじゅう)」は「二十」を意味する正式な漢字で、「廿日(はつか)」「廿歳(はたち)」のように現在も使われる表記です。「廿四孝」は「二十四孝」と読みも意味も全く同じで、単に「二十」を1文字でまとめて書いているだけになります。
- タイトルの「本朝」とはどういう意味ですか?
-
「本朝(ほんちょう)」は、古い日本語で「わが国=日本」を指す言葉です。
中国(唐土)の出来事や書物と区別するために、「本朝○○」という形で「日本版の○○」「わが国の○○」という意味合いで使われました。つまり「本朝廿四孝」は、中国の親孝行説話集「二十四孝」になぞらえて、「日本版の二十四孝」という意味で名づけられたタイトルということになります。
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まとめ|本朝廿四孝は一途な恋が奇跡を呼ぶ物語
『本朝廿四孝』十種香・奥庭は、
- 敵味方に分かれた恋人たちの再会
- 父の企みから恋人を救おうとする姫の決意
- 狐火に導かれる幻想的な奥庭の場
という要素が凝縮された、歌舞伎屈指の人気演目です。
一途な恋心が奇跡を呼び起こす八重垣姫の姿は、歌舞伎の「三姫」を象徴する見どころのひとつ。
ストーリーがわかりやすいぶん、初めて時代物を観る人にも安心しておすすめできる演目です。
竹本の語りに耳を澄ませながら、狐火に導かれる八重垣姫の姿をじっくりと味わってみてください。
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