歌舞伎の舞台で、刀を抜いた侍と大勢の捕り手が入り乱れて斬り合う場面を見たことがあるでしょうか。
斬られた者が宙を舞うように転がり、主役が要所でキリッと見得を切る——この様式化された戦いの演技全体を、歌舞伎では「立ち回り(たちまわり)」と呼びます。
立ち回りは、ぎば・とんぼ・見得といった数々の技法を束ねる、いわば「戦いの演技」全体を指す総称です。
この記事では、立ち回りとは何か、実際の喧嘩とは何が違うのか、どんな技法や裏方の仕組みで支えられているのかを、初心者にもわかりやすく解説します。
立ち回りとは|歌舞伎における「戦いの演技」の総称
立ち回りとは、歌舞伎の舞台で繰り広げられる、斬り合いや捕り物、格闘といった「戦いの場面」全体を指す言葉です。
演劇用語としては歌舞伎に限らず時代劇や現代劇でも使われますが、歌舞伎における立ち回りは、実際の剣術や喧嘩の動きをそのまま再現するのではなく、長い年月をかけて洗練された独自の「型」の組み合わせによって成り立っています。
国立劇場の解説によれば、立ち回りは「複数の人物が斬り合ったり格闘したりする場面の演技・演出」とされ、ツケ(拍子木を打つ音響効果)や見得、とんぼといった要素を組み合わせながら進行します。
ぎば・とんぼ・見得はいずれも立ち回りを構成する個々の技法であり、立ち回りはそれらをまとめた上位の様式ジャンルにあたると考えるとわかりやすいでしょう。
立ち回りを支える型は、やまがた・天地・からうす・かすみ・やなぎ・胸止め・千鳥・振り込み頭払いなど、細分すると200種とも、300種ほどともいわれています。
役者はこれらの型を稽古で身体に染み込ませ、立師が上演ごとに考案・振付した段取りを、本番では音楽やツケのリズムに合わせて演じています。
こうした型の体系は、歌舞伎の「型」という考え方そのものとも深く結びついています。

もともと「立ち回り」という言葉は、舞や踊り以外の芝居の身のこなし全般を指す言葉だったとされます。
その中でも合戦や争いなど動きの激しい場面が「立ち廻り狂言」と呼ばれるようになり、次第にアクション場面そのものを指す言葉として定着していったといわれています。
時代とともに、その様式は演出の工夫を重ねながら磨き上げられ、現在の形へと発展してきました。
「魅せる」ための様式美|リアルな喧嘩ではない理由
立ち回りの最大の特徴は、写実的な戦闘描写ではなく、美しさやリズム感を重視した「様式美」を目指している点です。
実際の斬り合いや喧嘩は、動きが乱雑でどこか生々しく、決して美しいものではありません。
しかし歌舞伎の立ち回りは、下座音楽に合わせて、まるで舞踊のように動きを揃えていきます。
基本の型は「一人の人物に大勢で掛かる」という構成です。
主役(シン)は刀や槍を使って立ち回りながらも、要所要所で見得を決め、その周囲を取り囲む捕り手や敵役(カラミ)が、跳んだり転がったりとアクロバティックな動きで場を盛り上げます。
シンとカラミが下座音楽に合わせて連携することで、格の高さと迫力の両方を表現するのも、歌舞伎らしい様式美といえるでしょう。
立ち回りを彩る代表的な技法
立ち回りは単一の動きではなく、複数の技法が組み合わさって一つの場面を作り上げています。
ここでは代表的な技法を紹介します。
ぎば|投げられ役が見せる「様式化された尻もち」
「ぎば」は、敵に投げられたり蹴られたりした瞬間に、飛び上がって尻もちをつき、両足を開いて前に投げ出す型です。
腹ぎば・胸ぎば・背ぎば・横ぎばなど、体のどちらの面を下にして落ちるかによっていくつかの種類に分けられており、攻撃の方向や技の種類に応じて使い分けられます。
ぎばの詳しい種類や、『義経千本桜』知盛の「背ギバ」といった代表例については、以下の記事で詳しく解説しています。

とんぼ|宙を舞う一回転
「とんぼ」は、斬られたり突き飛ばされたりした役者が、その場で宙返りをして見せる技法です。
捕り手や敵役を演じる役者が中心となって披露するもので、舞踊や時代物の立ち回りで用いられ、失敗すれば大怪我につながりかねない高度な身体技術が求められます。
国立劇場にはとんぼの練習用の砂場が備えられていたとされ、役者たちは日頃からこの宙返りの精度を磨いているといわれています。
見得|静と動のコントラストを生む決めポーズ
立ち回りの中で主役が動きを止め、キッと目を見開いて一瞬静止する型が「見得」です。
とんぼやぎばが激しい動きで場を盛り上げるのに対し、見得は静止することで緊張感を最大化させる、いわば対極の技法といえます。
見得の意味や種類についてはこちらの記事で詳しく解説しています。

カラミ|捕り手たちの連携した動き
主役に立ち向かう捕り手や敵役たちのことを「カラミ」と呼びます。
カラミは一人ひとりが目立つ動きよりも、集団としての連携やリズムを重視し、主役を引き立てる役割を担っています。
梯子や捕縄を使った立体的な演出が加わることもあり、立ち回り全体に奥行きを与えています。
立ち回りを支える裏方|ツケと囃子のタイミング
立ち回りの緊張感や迫力は、役者の動きだけでなく、舞台上手に座る「附け打ち(つけうち)」の存在によって支えられています。
附け打ちは、見得を決める瞬間や飛んだり跳ねたりする動きに合わせて、二本のツケ木をツケ板に打ちつけ、音を鳴らします。
このツケの音は、役者の呼吸や動きと寸分たがわぬタイミングで打たれる必要があり、附け打ち自身にも高度な技術が求められます。
さらに立ち回りには、下座音楽(三味線や太鼓による囃子)の演奏が加わり、役者はこの音楽に乗るようにして一連の型をつなげていきます。
役者・附け打ち・囃子方の三者が呼吸を合わせることで、初めて一つの立ち回りが完成するのです。
なお、立ち回りは舞台上だけでなく、客席を貫く花道でも展開されることがあります。
花道の上での立ち回りも、あらかじめ決められた段取りに沿って役者・附け打ち・囃子方が呼吸を合わせて演じられています。
花道そのものについては、こちらの記事で詳しく解説しています。

「立師」とは|立ち回りを生み出す振付の専門家
立ち回りの型を考案し、役者に振り付けを指導する専門家を「立師(たてし)」と呼びます。
立師は、上演のたびに主役を演じる役者の芸風や体格、演目の内容に合わせて、既存の型を組み合わせたり新たにアレンジを加えたりしながら、その舞台だけの立ち回りを作り上げていきます。
同じ演目であっても、上演の時代や配役によって立ち回りの構成が変わることがあるのは、この立師の采配によるところが大きいとされています。
江戸時代から今日に至るまで、数多くの役者や振付師が工夫を積み重ねてきた結果として、現在私たちが目にする洗練された立ち回りの型の体系が受け継がれてきました。
立ち回りが見られる代表的な演目・名場面
立ち回りは、刀を使う時代物の捕物場面から、素手の喧嘩を描く世話物まで、幅広い演目で見ることができます。
ここでは代表的な例を紹介します。
江戸時代の盗賊たちを主人公にした世話物「白浪五人男(青砥稿花紅彩画)」は、捕り手との立ち回りが見どころの一つとして知られる作品です。
粋でリズミカルな立ち回りは、世話物ならではの軽妙な魅力を伝えてくれます。

一方、時代物の名作『義経千本桜』「渡海屋・大物浦」で平知盛が見せる「背ギバ」は、立ち回りとぎばが物語のクライマックスと結びついた屈指の名場面です。
碇を身に巻きつけた知盛が、壮絶な最期とともに海へ身を投げる瞬間は、立ち回りが単なる見せ場ではなく、物語の感情を表現する手段にもなり得ることを示しています。

スケールの大きな立ち回りとして名高いのが、『南総里見八犬伝』の「芳流閣(ほうりゅうかく)」の場です。
屋根の上で二人の犬士が組み合う立ち回りは、二人を乗せたまま屋根が後方へ倒れる「どんでん返し」の仕掛けを駆使した、立体的でダイナミックな演出として知られています。
芳流閣の立廻りの見どころについては、こちらの記事で詳しく解説しています。

このように、立ち回りの雰囲気は勇壮な「荒事」の系統から、写実に近い「世話物」の系統まで、演目のジャンルによって大きく異なります。
歌舞伎のジャンルによる違いについては、こちらの記事もあわせてご覧ください。

観劇のときの見どころ・楽しみ方
立ち回りを観劇する際は、まず主役の動きの少なさに注目してみましょう。
周囲がどれだけ激しく動いても、シンを演じる役者は要所で決める見得によって格の違いを見せつけます。
次に注目したいのが、附け打ちのツケの音とカラミの動きのタイミングです。
ツケの「バタバタッ」という音と、ぎばやとんぼの瞬間がぴたりと重なる様子を追いかけると、役者・附け打ち・囃子方の息の合った連携がより鮮明に感じられます。
また、立ち回りの終わりには、引っ込みとして六方を踏む場面が続くこともあります。
立ち回りの緊張感から一転、リズミカルな六方へと移り変わる流れも、あわせて楽しみたいポイントです。

初めて立ち回りを観る方は、物語のあらすじを追うことよりも、一つひとつの動きを「型の連続」として眺めてみるのがおすすめです。
ぎば・とんぼ・見得という型の名前を知っているだけで、次にどんな動きが来るのかを予想しながら観られるようになり、観劇の楽しみ方がぐっと広がります。
よくある質問(FAQ)
- 立ち回りと殺陣(たて)は同じものですか?
-
歌舞伎では戦いの演技を古くから「立ち回り」と呼んできました。
「殺陣(たて)」という言葉は、大正時代に新国劇の澤田正二郎が、歌舞伎とは異なるスピード感とリアリティのある戦闘演技を追求する中で定着させた読み方だとされています。
そのため現在では、歌舞伎の様式的な戦いの演技を「立ち回り」、映画や時代劇などの写実的な戦闘演技を「殺陣」と呼び分ける傾向がありますが、厳密に使い分けられているわけではありません。 - 立ち回りには全部で何種類くらいの型があるのですか?
-
やまがた・天地・からうす・かすみ・やなぎ・胸止め・千鳥・振り込み頭払いなど、およそ200種類ほどの型が組み合わされて立ち回りが構成されているとされています。
役者と立師がこれらを組み合わせ、演目や場面ごとに異なる立ち回りを作り上げています。 - ぎばやとんぼは誰でも演じられるのですか?
-
ぎばやとんぼは、捕り手や敵役(カラミ)を演じる役者が中心となって披露する高度な身体技術です。
怪我をせずに美しく決めるためには長期間の稽古が必要で、国立劇場には練習用の砂場も備えられていたとされています。 - 立ち回りの振付は誰が考えているのですか?
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「立師(たてし)」と呼ばれる専門家が、上演のたびに主役の芸風や演目の内容に合わせて立ち回りの型を組み立て、役者に指導しています。
同じ演目でも上演によって立ち回りの構成が変わることがあるのは、この立師の工夫によるところが大きいとされています。 - 立ち回りはどの演目でも見られますか?
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刀を使う時代物の捕物場面から、素手の喧嘩を描く世話物まで、幅広い演目で立ち回りを見ることができます。
『義経千本桜』「渡海屋・大物浦」や「白浪五人男」など、立ち回りが名場面として語り継がれている演目も数多くあります。
歌舞伎が初めての方へ
歌舞伎自体が初めてだと「どう観ればいいの?」と迷うこともあるかもしれません。
歌舞伎には独特の約束ごとや表現がありますが、基本を少し知っておくだけで、面白さがぐっと伝わりやすくなります。
歌舞伎とは?初心者向けにわかりやすく解説

まとめ|立ち回りは「魅せるための殺陣」
立ち回りは、歌舞伎における戦いの演技全体を指す総称であり、ぎば・とんぼ・見得といった数々の技法や、附け打ちのツケ、囃子、そして立師による振付が幾重にも重なり合って成立する、様式美の結晶です。
実際の喧嘩や斬り合いをそのまま見せるのではなく、美しさとリズム感を追求した「魅せるための殺陣」だと知っていれば、次に立ち回りの場面に出会ったときの見え方もきっと変わってくるはずです。
主役の静と、周囲を取り囲むカラミの動、そしてツケの音のタイミングにも、ぜひ注目してみてください。
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