「あの『風の谷のナウシカ』が歌舞伎になった」——そう聞いて意外に思う人も多いのではないでしょうか。
2019年12月、新橋演舞場で初演された新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』は、宮崎駿の代表作を歌舞伎の舞台に乗せた前例のない挑戦として、大きな話題を呼びました。
この記事では、あらすじ・キャスト・見どころから、映画版との違い、2022年に歌舞伎座で行われた再演の記録まで、初心者にもわかりやすく解説します。
新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』とは?作品概要
新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』は、宮崎駿がアニメージュ誌に連載した漫画『風の谷のナウシカ』(全7巻)を原作に、歌舞伎の舞台として一から作り上げた作品です。
宮崎駿作品、そしてスタジオジブリに関連する作品が歌舞伎化されたのは、本作が史上初めてのことでした。
脚本はスタジオジブリ作品を数多く手がけてきた丹羽圭子と戸部和久、演出は新作歌舞伎『NARUTO-ナルト-』も手がけたG2が担当しました。
美術は中嶋正留、照明は千原悦子、そして腐海の蟲や巨神兵などの造形監修には竹谷隆之が参加しています。
2019年12月6日から25日まで、東京・新橋演舞場で初演され、連日満席となる大盛況のうちに幕を閉じました。
「スーパー歌舞伎」ではない?ブランドと制作の背景を整理
同じ新橋演舞場を拠点に、三代目市川猿之助(のちの二代目市川猿翁、2023年没)が創始したジャンルにスーパー歌舞伎があります。
漫画やアニメを原作にした派手な演出の新作歌舞伎、という共通点から「風の谷のナウシカ」もスーパー歌舞伎の一作だと思われがちですが、正式な演目名はあくまで「新作歌舞伎」であり、スーパー歌舞伎シリーズとは制作陣も異なる独立した作品です。
主演のナウシカを演じたのは尾上菊之助(音羽屋)で、クシャナ皇女を中村七之助(成駒屋)が演じました。
同じくスタジオジブリ作品を歌舞伎化したスーパー歌舞伎『もののけ姫』とは主演も制作体制も異なるため、混同しないよう覚えておくとよいでしょう。
あらすじ|映画では描かれなかった”後半”までを完全上演
物語の舞台は、産業文明が「火の七日間」と呼ばれる戦争で滅んでから千年後の世界。
大地の多くは有毒な瘴気を発する菌類の森「腐海」に覆われ、そこには蟲と呼ばれる巨大な生物たちが暮らしています。
風の谷の族長の娘であるナウシカは、腐海や蟲と心を通わせながら、その謎を解き明かそうとしている少女です。
ある日、隣国ペジテで、火の七日間で世界を焼き尽くした兵器「巨神兵」を復活させる力を秘めた秘石が発見されたことから、大国トルメキアがペジテを滅ぼし、秘石を手に入れます。
ナウシカは戦火に巻き込まれながらも、トルメキアの皇女クシャナ、そして敵対する土鬼諸侯国連合帝国との間で、腐海と蟲、そして人間の生き方をめぐる壮大な物語に身を投じていくことになります。
1984年公開の映画版は、原作漫画の序盤部分をもとに独自の結末を描いた作品でした。
これに対して新作歌舞伎版は、映画では描かれなかったトルメキアと土鬼の全面戦争、巨神兵の復活、そして物語の核心である「シュワの墓所の秘密」まで、原作全7巻のストーリーを通し狂言として舞台化している点が最大の特徴です。
昼の部にあたる前編(序幕〜三幕目)と、夜の部にあたる後編(四幕目〜大詰)の二部構成で、原作ファンにとっても「その先」を初めて舞台で観られる貴重な機会となりました。
主要キャスト・配役一覧(2019年初演)
| 役名 | 演者 |
|---|---|
| ナウシカ | 尾上菊之助 |
| クシャナ(トルメキア皇女) | 中村七之助 |
| ユパ | 尾上松也 |
| アスベル | 尾上右近 |
| ミラルパ(土鬼皇弟) | 坂東巳之助 |
| クロトワ | 片岡亀蔵 |
| ヴ王(トルメキア国王) | 中村歌六 |
| ケチャ | 中村米吉 |
| 王蟲(声) | 市川中車 |
| 墓の主(声) | 中村吉右衛門(二代目) |
ユパ役の尾上松也、ケチャ役の中村米吉、ミラルパ役の坂東巳之助など、若手・中堅の実力派がそろい踏みしたことも本作の見どころのひとつでした。
王蟲の声を市川中車、墓の主の声を人間国宝・中村吉右衛門(二代目)が担当するなど、姿を見せない役どころにもベテランが配されている点も注目されました。
見どころ①:本水の立廻り・引抜と遠見が生む圧巻の舞台効果
本作最大の見どころは、歌舞伎の伝統技法を総動員して宮崎駿の世界観を表現した舞台演出です。
戦闘シーンでは本物の水を使う「本水」の立廻りが用いられ、迫力ある躍動感を客席に届けます。
衣裳が一瞬で変わる「引抜」、そしてその一種で衣裳の上半身を腰から下へ返すことで役柄の変化を見せる「ぶっ返り」といった歌舞伎ならではの技法も使われており、ミラルパが生霊の姿に変わる場面ではぶっ返りによって心情の変化が視覚的に表現されています。
ナウシカが愛機メーヴェで空を飛ぶ場面では、子役を使って遠近感を演出する「遠見」という伝統技法が用いられ、原作ファンにはおなじみの飛行シーンが歌舞伎らしい様式美で再現されました。
客席の上空を使う宙乗りも取り入れられ、舞台と客席の一体感を高める演出になっています。
見どころ②:王蟲・巨神兵——宮崎ワールドを立体化する舞台美術
本作のもう一つの見どころが、原作でおなじみの生物や兵器を舞台上に立体化した造形・舞台美術です。
造形監修には、映画・特撮作品のクリーチャーデザインで知られる竹谷隆之が参加し、腐海に生きる蟲たちや、世界を焼き尽くした兵器「巨神兵」が復活する名場面を舞台上に作り上げました。
美術は中嶋正留、照明は千原悦子が手がけ、腐海の不気味な静けさから、トルメキア軍と土鬼諸侯国連合帝国が激突する戦場の熱量まで、場面ごとに異なる世界観を作り出しています。
後編では、竹本の演奏に乗せた尾上菊之助の舞踊もたっぷりと見せ場として用意されており、迫力ある立廻りだけでなく、歌舞伎らしい「魅せる」演出も楽しめる構成になっています。
実際に観た感想|歌舞伎の入り口としては最適、ただし通しで6時間超は体力勝負
ここからは、実際に本作を観たうえでの個人的な感想です。
まず率直に感じたのは、歌舞伎という演劇の面白さを知る入り口として、これ以上ないほど親切な舞台だということでした。
頭を大きく振り回す「毛振り」でおなじみの獅子物、ワイヤーで宙を舞う「宙乗り」、本物の水を舞台に流す「本水」、一瞬で衣裳が変わる「引抜」など、歌舞伎ならではの見せ場が次々と登場します。
物語を追いながら歌舞伎の代表的な演出をひと通り体験できるので、「歌舞伎は敷居が高そう」と感じている人にこそすすめたい一本です。
一方で、正直に書いておきたいのが上演時間の長さです。
2019年の初演は前編がおよそ2時間50分、後編がおよそ3時間10分あり、幕間を含めると通しで6時間を超えます。
原作全7巻を一日で描き切る密度は圧巻ですが、歌舞伎に慣れないうちに前編・後編を同じ日に観ると、後半は集中力との戦いになりました。
これから観る人には、前編と後編を別の日に分けるか、まずはシネマ歌舞伎で観る形をおすすめします。
場面として強く印象に残ったのは、やはり王蟲(オーム)です。
怒って突進していた大群の眼が、ナウシカの想いが通じるにつれて赤から青へと一斉に変わっていく場面は、客席全体が息をのむ迫力でした。
クライマックスで巨神兵オーマと墓の主の対決を、生霊同士がぶつかり合う連獅子さながらの毛振りの群舞で見せる演出も、歌舞伎の様式美と宮崎駿の世界が溶け合った名場面だったと思います。
「ひどい」との声も?賛否が分かれたポイントを整理
本作を検索すると、「風の谷のナウシカ 歌舞伎 ひどい」といった言葉が候補に出てくることがあります。
公演そのものは連日満席で、劇評でも高く評価された作品ですが、とくに原作漫画への思い入れが強いファンのあいだでは受け止めが分かれたのも事実です。
ここでは、どんな点が批判されたのかを公平に整理しておきます。
もっとも多いのが、原作の重要な場面が大幅にカットされているという指摘です。
全7巻の長大な物語を一度の上演で描き切るため、多くの挿話が省略され、テンポよく本筋が進みます。
そのぶん、物語の核心にあたる部分や、登場人物の心情にじっくり寄り添う描写が削られており、原作を深く読み込んでいる人ほど「あの場面がない」と物足りなさを感じやすい仕上がりです。
もう一つが、原作ファンと舞台の作り手の狙いとのあいだにある温度差です。
演出のG2は、あえて現代的な手法ではなく古典歌舞伎の様式でナウシカの世界を立ち上げる方針を取りました。
原作の絵やアニメの質感をそのまま舞台で再現してほしい人にとっては、この様式化そのものが「イメージと違う」と映ることがあります。
また、ナウシカを女方が演じることへの違和感を挙げる声もあります。
歌舞伎では女性の役を男性が演じるのが約束事で、初演のナウシカは当時42歳の尾上菊之助が務めました。
宮崎駿が描く少女のプロポーションや、映画版で島本須美が演じた声のイメージと重ねると、どうしても隔たりを感じるという受け止めです。
とはいえ、これらは歌舞伎という表現形式を選んだ時点で避けにくいものでもあります。
原作の忠実な再現よりも、「歌舞伎が宮崎駿の世界をどう解釈したか」を楽しめる人にとっては、十分に見応えのある舞台です。
原作漫画を読み込んでいる人は映像で予習してから、映画版しか知らない人はまず素直に舞台の勢いを味わう、という観方が向いていると思います。
上演の記録|2019年新橋演舞場から2022年歌舞伎座まで
- 2019年12月6日〜25日:新橋演舞場(初演、前編・後編の通し狂言)
- 2020年2月14日〜(前編)・2月28日〜(後編):シネマ歌舞伎として全国の映画館で公開
- 2021年1月20日:Blu-ray・DVDが発売(ジブリがいっぱいCOLLECTION)
- 2022年7月4日〜29日:歌舞伎座「七月大歌舞伎」第三部として再演(『風の谷のナウシカ 上の巻 ―白き魔女の戦記―』)
原作全7巻を通し狂言として上演したのは2019年の初演のみで、この形での再演はまだ行われていません。
2026年9月時点で、次の上演についての発表はありません。
今後の上演情報は、歌舞伎美人や松竹の公式サイトで随時確認することをおすすめします。
2022年歌舞伎座での再演|配役交代とコロナ禍による公演中止
2022年7月、歌舞伎座の「七月大歌舞伎」第三部として、『風の谷のナウシカ 上の巻 ―白き魔女の戦記―』のタイトルで再演が行われました。
2019年初演の前編を改訂・再構成した上演で、皇女クシャナの生き方により深く踏み込む構成になっていたのが特徴です。
配役にも大きな変化がありました。
初演でナウシカを演じた尾上菊之助がクシャナ役に、初演でケチャを演じた中村米吉がナウシカ役に、それぞれ交代したのです。
ユパは坂東彌十郎、ケチャは中村莟玉が新たに演じるなど、初演とは異なる顔ぶれで物語が描かれました。
この2022年公演は、新型コロナウイルス感染症の影響で7月19日、および21日から29日までの公演が中止となりました。
千穐楽にあたる7月29日には、収録済みの舞台映像がHuluストアで疑似生配信されるという、異例の幕切れとなっています。
映像で観る方法|シネマ歌舞伎・Blu-ray・DVD
劇場に足を運べなかった人でも、本作は映像で楽しむことができます。
2020年2月にはシネマ歌舞伎として全国の映画館で公開され、前編は2月14日から、後編は2月28日から上映されました。
2021年1月20日には、2019年初演時の舞台映像をもとにしたBlu-ray(2枚組)・DVD(4枚組)が「ジブリがいっぱいCOLLECTION」の一作として発売されています。
リバーシブルジャケット・三方背ケース仕様で、初めて観る人にもおすすめできる内容です。
宮崎駿の漫画・アニメ作品を原作にした新作歌舞伎は本作以降も注目を集めており、同じくスタジオジブリ作品を題材にしたスーパー歌舞伎『もののけ姫』もあわせてチェックしてみてください。
また、あらすじがわかりやすい新作歌舞伎は歌舞伎初心者にとって良い入り口でもあります。詳しくは新作歌舞伎がおすすめな理由の記事もあわせてご覧ください。


よくある質問(FAQ)
- 新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』はスーパー歌舞伎の一作ですか?
-
いいえ、正式には「新作歌舞伎」として制作された作品で、市川猿之助家が手がけるスーパー歌舞伎シリーズとは制作陣も異なります。
ただし同じくスタジオジブリ作品を原作にした演目として、スーパー歌舞伎『もののけ姫』としばしば比較されます。 - いつ、どこで上演されましたか?
-
2019年12月に新橋演舞場で初演され、2022年7月には歌舞伎座で『風の谷のナウシカ 上の巻 ―白き魔女の戦記―』として再演されました。
2026年9月時点で、原作全編を通した形での再演は行われていません。 - 映画版とストーリーは同じですか?
-
大きく異なります。
1984年公開の映画版は原作漫画の序盤をもとに独自の結末を描いていますが、新作歌舞伎版は巨神兵の復活やシュワの墓所の秘密など、映画では描かれなかった原作全7巻のストーリーを通し狂言として上演しています。 - 主演は誰が演じましたか?
-
2019年の初演ではナウシカを尾上菊之助、クシャナを中村七之助が演じました。
2022年の再演では役柄が入れ替わり、ナウシカを中村米吉、クシャナを尾上菊之助が演じています。 - 原作を読んでいなくても楽しめますか?
-
楽しめます。
腐海や蟲との共生、戦争の愚かさといった普遍的なテーマを軸に描かれているため、原作や映画を知らなくても物語に入り込みやすい構成になっています。 - 映像で観る方法はありますか?
-
2020年2月にシネマ歌舞伎として全国の映画館で公開されたほか、2021年1月にはBlu-ray・DVDが発売されています。
上映・発売情報は松竹やスタジオジブリの公式サイトで確認できます。
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まとめ|宮崎駿の世界を歌舞伎の様式美で描いた意欲作
- 宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』全7巻を原作にした新作歌舞伎(スーパー歌舞伎とは別系統の作品)
- 2019年12月、新橋演舞場で初演。ナウシカ役は尾上菊之助、クシャナ役は中村七之助
- 映画版では描かれなかった巨神兵復活からシュワの墓所の秘密まで、原作全編を通し狂言として上演
- 本水の立廻り・引抜・遠見・宙乗りなど歌舞伎の伝統技法を駆使した演出が見どころ
- 2022年歌舞伎座で再演。ナウシカとクシャナの配役が交代し、コロナ禍で公演の一部が中止に
- シネマ歌舞伎・Blu-ray・DVDで映像視聴も可能
『風の谷のナウシカ』を読んだことがある人はもちろん、映画版しか観たことがない人にとっても、原作の「その先」を体感できる貴重な舞台です。
宮崎駿の世界観が歌舞伎の様式美とどう溶け合うのか、ぜひ映像や再演情報を通して確かめてみてください。
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